石川直樹「8848」
開廊日時: 12:00-18:00 *日・月・祝日休廊
会場: SCAI THE BATHHOUSE
展示作品: 写真作品 46点・映像作品
1977年東京生まれの写真家・石川直樹はカメラを片手に世界を歩き続け、自らが反応するままにそれぞれの瞬間を写真に記録していくアーティストです。人類学・民俗学などの領域にも関心をもち、行為の経験としての移動や旅などをテーマに写真作品を発表し続けています。10代の頃から旅に取り憑かれ、これまで北極や南極、世界の最難関の山や辺境の地を旅して来た石川は2000年頃から本格的に写真に取り組むようになりました。独自の世界観を孕んだ写真の評価は高く、2010年には南太平洋の島々の風景を捉えた写真集『CORONA』(青土社)が、史上二番目の若さで第三十回土門拳賞を受賞しました。一方文筆の世界でも注目され、ノンフィクション作品『最後の冒険家』(集英社)が2008年に開高健ノンフィクション賞を受賞しています。
その石川が、今年の3月末から2ヶ月間をかけて、2度目のエベレスト登山にむかいました。今から10年前、23歳の時に石川は一度目のエベレスト登頂に成功し、当時の七大陸最高峰登頂の最年少記録を塗り替えました。そのとき石川はチベット側から登りましたが、エベレストの頂上で今登ってきたのとは逆のネパール側から登ってくる登山者を見ました。こうした光景を反芻しつつ、次第に石川の中でエベレストの頂上に向かうもうひとつのルートに挑戦するプランが現実味を帯びてきたそうです。
また、今回の登山の目的は、エベレストに関するあらゆる事象を見聞きし、自分の目で現在のエベレストをきっちりと記録すること。フィルムに刻みつけること。「撮れるところまで写真を撮る」そう言って、愛用の6x7中判のフィルムカメラ『マキナ670』と『マミヤ7Ⅱ』の2台、交換用フィルム120本を携えてむかいました。酸素の薄い高所では、日常の何気ない動作1つでも辛く、ほんのわずかな荷物でもフィジカルに大きな影響を与えます。そういった中、あえて危険を冒してまでも中判カメラを携えてのエベレスト挑戦にこだわった石川でした。
登山のスタート地点は、標高2842mネパール山間の村ルクラから。『エベレスト街道』と呼ばれるヒマラヤの村々を渡り歩く美しい道のりを徐々に標高をあげながら2週間ほどかけて歩き進み、標高5200mのエベレストベースキャンプ(BC)へ。
BCを拠点に、体を高所にならす高所順応やアイスフォール(氷雪地帯)を登るトレーニング、標高6100mのロブチェピークという山への登頂、頂上アタックのアプローチの下見など1ヶ月以上かけて入念におこないました。
その後、石川の所属するヒマラヤンエクスペリエンス(HIMEX)隊は、3名のリタイヤを除く登山者9名、ガイド3名、シェルパ11名で頂上アタックにむかいます。ルートは、BC、C1(標高6000m)、C2(標高6400m)、C3(標高7200m)、C4(標高8000m・別名サウスコル)、頂上(標高8848m)と次第に困難を極めていきます。
しかし1度目のアタックはC3に到着するものの、頂上付近の天候が悪化するだろうとの判断で断念、一時BCまで撤退をすることになります。これはかなりの体力を消耗することになってしまったそうですが、天候の見極めは何よりも大切でこの判断によっては生死をわけるといっても過言ではないそうです。
次のアタックは1週間後くらいになるだろうという予測とは裏腹に、世界各国から寄せられる天気予報のデータを総合判断した結果、戻ってきて2日もたたないうちに再度アタックに挑むことになります。今回の登山を克明に記録にとどめるために立ち上げられた自身のブログ『For Everest ちょっと世界のてっぺんまで』(協力:リトルモア)のなかで、石川は再アタックの直前の心境をこう綴っています。
「東京にいるときには、こんなに自分自身をプッシュすることはない。精神的にきついことはあるかもしれないが、肉体的な限界を超えてさらにがんばらなくてはいけない瞬間などはない。吐きそうになりながら歩き続けることなんてない。もう歩けなくなって雪上に膝から崩れ落ちて、肩で息をすることなんてない。誰も助けてくれないから、這ってでも歩き続けるしかないんだ、などと自分に言い聞かせる瞬間などない。
この登山を終えて早く安心できる場所に戻りたいという思いが頭をよぎる一方で、おそらく後で振り返ってこれ以上ないというほど貴重な時間のただ中にぼくはいる。10年前の登山と同じだ。苦しさを越えたあの喜びや発見に魅せられて、ぼくは再びこの山に来ている。自分自身が一番それをよくわかっている。二度と得ることのできない大切な時間をぼくはいま、生きている。登頂しようが撤退しようが、あと数日で今回のエベレスト登山が終わる。再び撤退した後の三度目のアタックというのは多分ないだろう。この希有な体験が終わりに近づいていることが惜しい。
BCからC1へ、C1からC2へ、C2からC3へ、というようにその日の行動を一言で言い表すのは簡単だ。しかし、その背後には膨大かつ詳細な自らの感情や感覚の機微、予感や予兆に溢れている。
雪崩の音。アイゼンのヒモが緩んできになる。ザックの重みが肩に食い込む。がに股で登り続けて足首が痛い。気が遠くなるようなクレバスの深さ。アイスフォールの巨大な氷が今にも落ちてきそうだと考える。ヘッドランプの頼りない明かり。雪面に反射する太陽光のまぶしさ。サングラスを外したときの目を焼くような光。何度呼吸をしても酸素を思うように吸い込めない苦しさ。胃腸の不調。降りかかる氷の破片。歪むハシゴ。抜けそうなアンカー。ねじれて毛羽だったロープ。感覚がなくなった指先を動かす。フィックスにカラビナを掛け替えるときの緊張。砂混じりのお湯。ヘルメットがずれてくる。小便の調子で体調を占う。左頬に吹き付ける氷雪。居心地の悪いC3のテント。一度脱いだらもう履きたくない三重靴。ヌプツェの表面の美しい雪と岩の模様。うんざりするほど垂直なローツェフェース。懸垂下降の連続で腰にハーネスがめり込む。どこで手にいれたのかもわからない古い装備で登ってくるシェルパ。足の感覚がなくなる。鼻の皮がむけて痛い。満月に近い月。小さいけれど硬く光る星々。
登山のディティールはすぐに忘れてしまう。たとえエベレストでも忘れてしまう。だからぼくは書きとどめておく。
温かくて身体の隅々に染み渡るこの記憶のスープが、薄く冷たくならないように。では、再び行ってきます。」
(2011年5月15日 自身のブログより一部抜粋)
その後 石川はついに、BCを再出発して5日後、C4を出発してからおよそ6時間後の、2011年5月20日 午前6時12分、石川は10年ぶり2度目のエベレスト登頂に成功しました。
頂上はわずか畳3畳ほどのスペースしかなく、周囲は断崖絶壁。足下にはタルチョと呼ばれるチベット仏教の経文が書かれた色鮮やかな祈祷旗が散乱しています。足を引っ掛けて転んだり、体を固定するものがないので落ちないように気をつけながら両手でカメラを構え、酸素マスクからたれてくる水滴でガチガチに凍ってしまったカメラのボディの氷をばりばり壊しながら時間のゆるす限りシャッターを切り続けたそうです。気温はマイナス30度。石川はカメラを手にしたまま頂上に25分も滞在していました。
本展覧会では、今回のエベレスト登山中に石川が撮影した渾身の写真を展示いたします。
巨大な氷が突き出るアイスフォール、所々にあるクレバスという深い氷の裂け目、エベレストの頂きを目指す険しい斜面。そして標高8848mの世界最高峰の頂きから俯瞰する世界。眼下に広がる広大なヒマラヤ山脈と雲海、成層圏に近づくにつれて碧くなる空、近くに感じられる太陽光。これらの写真からは、美しくも厳しい山の力、大自然に向き合った時にのみ感じる畏怖の念、生きることへの力強さ、それでいて対象との距離を一定にとりながら冷静に撮影をする石川の視線が感じられます。また、自らの精神と肉体の限界に挑んだ先で撮られた作品群からは、単なる旅の記録としての写真ではない圧倒的な存在感が伝わってきます。
登頂の記録と併せ、登山への下見と高所順応のために3年ほど前から幾度となく訪れたエベレスト街道や山岳民族のシェルパ族が暮らす村の写真などもあわせて展示いたします。人間の生活圏からもっとも遠い極地ともいえるエベレストの麓で、ヤクを飼い、畑を耕し、時には自分の体ほどもある大きな荷物を背負い、エベレスト登山者をサポートしながら、ひっそりと、たくましく日々を営む人たちの生活がそこにはあります。
この写真群はデジタル全盛の現代において、おそらく「フィルムカメラによっておさめられた最後のエベレストの写真」として、ひとつの時代の終焉を示唆する貴重な記録になるとともに、21世紀のエベレスト登山の痛いまでのリアルをつきつけるジャーナルでもあります。空前の登山ブームと言われる今、それでも一般の人を近づけない孤高の山があることを、そのあまりにも大きな存在、想像を絶する天空の視界を、確かに感じさせてくれる貴重な作品の世界に是非ご期待ください。