FACES
磯谷博史、岡田理、エレナ・トゥタッチコワ、蓮沼執太
私にとって遊びは、最大の決定権を握っています。...それは人間が持つ最も重要な生の要素の一つなのです。
——ミヒャエル・エンデ
どれほどの日々の出来事が、偶然の接触や出会いに委ねられているのでしょうか?『FACES』では、物理的な距離と接近、接触した際に生じる知覚や共鳴など、人やものを結ぶ出来事の考察が重ねられています。昨春、神奈川県立近代美術館葉山館で予定されていた音楽イベント+展覧会「MUSIC TODAY HAYAMA / FACES」のために築かれた構想は、パンデミックの影響により中止となった後にも作家たちによる再考が重ねられ、ポストカードや書簡の往信を通じ、遠隔の対話を繋ぐダイアログの場としてあり続けてきました。そこには、コラボラティブな設計と即興的な仕草が、巧みに織り込まれています。
生活の中に「音」が生まれる成り立ちや意味を、環境の条件を用いて表す蓮沼執太。2019年ニューヨークで展開された「Someone’s public and private / Something’s public and private」は、公園に置かれたスコアとウォーターボトルが、取り巻く音と空間を作り変えました。新作インスタレーション《FACES》(2021年)は、楽器の製造過程で排出されるブラス(真鍮)の破片で構成され、素材の接触が音を生む状況を再構築しています。 壁一面に、金色の鋭い輝きを見せる金属の破片。楽器として期待された音を持たない断片が、接触し合うことで素材そのものの音を回復する本作は、音の造形的な側面を想起させながら、人間が作る環境とその外側に目を向けます。
被写体とそこに付随する音への介入は、磯谷博史の写真作品《物音を連れて》(2019-2021年) に引き継がれていきます。磯谷はこれまでも、iPhoneで撮影した風景など、自らの生活圏から拾い上げた身近な素材で、鋭い状況の構成と知的パズルを生み出してきました。本作では、提示されたイメージは、そこにあったはずの音を、鑑賞者の記憶、または空想の領域で再生しようと働きかけます。この音とイメージの再配置は、現在という認識を不確かなものと感じさせ、巧みに縁取られた思考の枠組みが、過去から未来へと一方向に進む時間軸という考えに疑問を投げかけています。
エレナ・トゥタッチコワは、歩き続けることで、世界の認識を新たにしていきます。手書きのマップやドローイング、写真、映像によるインスタレーションが描き出すのは、今年の夏に行った一人の少年との旅。自らの存在を確かめ、両足を地面に接して、身体的な制限や速度のなかで続ける営みの過程に、二人がそれぞれに理解し共有した新しい土地の体験があります。このとき、歩行は、時間と空間を同時に把握し、思考と想像を導く総合的なメディアとなり、ものごとが接触し関係を結ぶ本展のテーマに、地理的な広がりと音楽的なリズムを与えていきます。
日常的にみる夢の世界から現実に持ち帰るものは限られていますが、そんな不思議な出来事に向き合う時間のなかに、理解のいとぐちが隠れているかもしれません。岡田理は、磁土から丹念に練り上げたセラミック彫刻で、出会いと繋がりを深めるこの複雑な主題に応えます。植物や珊瑚、指先やロープなど象徴的な記号が混ざり合うユーモラスな彫刻群は、現実と夢を飲み込むような静かな力で象られています。有機的で奇異なフォルム、色彩、艶のある豊かな表情は、孵化したばかりの生体のように真新しい出会いとなって鑑賞者の前にたち現れ、見ることを迫ります。
物事が出会い、さまざまな表情が行き交う影で、忘れ遠のいていく存在もあります。思いがけない出来事の関係性を探ることが、今日という社会の条件や制約を明るみに出すことに繋がるのです。ささやかな未知との接触や邂逅———本展は、そうした日常の認識に取りこぼされた発見に共鳴し、多様な理解のプロセスとなる遊びの領域を取り戻そうと試みます。人の流れや偶然性が抑止された今考察されているのは、この偶然の接触と関係性の広がりです。そして、そのわけが、音として、像として、空間として、すくい出されていきます。