ダレン・アーモンド
「Timeline」
いかにして時間を表現するか。これは古今東西の科学者、哲学者、そして芸術家たちが長年探求してきた問いです。英国ウィガン出身のダレン・アーモンド(1971- )は、数字や言葉という記号で測量される時間や距離といった客観的な指標が見過ごしてきた豊かな世界に分け入り、個人の記憶や感情、あるいはその土地の歴史を手がかりに、時間について思索を続けてきました。時間が支配の道具となる管理社会の画一的な時間概念を批判的に考察し、技法やメディア自体をコンセプチュアルに扱うことで開かれるのは、人間だけでなく、地球そして宇宙まで含む「存在」をめぐり、揺らぎ続ける現実と想像の地平です。
SCAI THE BATHHOUSEでの7年ぶりとなる個展は「Timeline」と題されています。このタイトルが示唆するように、会場内には複数の時間軸が交差しています。本展で世界初公開となる新作シリーズ《エントロピー》と《英国の歌鳥》には、これまでの作家の軌跡を踏襲しつつも、コロナ禍や身近な人の死を経て更新されたアーモンド独自の時間概念が凝縮されています。
会場で一際存在感を放つ5連のペインティング《エントロピー》。銀色の大きな0という数字が、分割された8枚のパネルを縦断し、作品全体に安定をもたらしています。一方、0以外の数字は、フリップ時計の文字盤ように、機械的に上下に分断され、画面上を漂っています。静的でありながらも躍動感のある色とりどりの数字の断片は、どこか風景のようです。それは、満月という自然の照明の下、秘境を長時間露光で撮影し、夜と昼が同居するかのような神秘的な時を捉えたアーモンドのデジタル写真シリーズ《Fullmoon》のように、既視感がありながらも、決して到達されないロマン主義的な想像の景色を思わせます。
5年の歳月をかけたというその制作方法にも、時間に対するアーモンドの姿勢が現れています。まずキャンバスの一部に銀箔等の金属箔を貼り、放置することで経年変化を生じさせます。その過程で生まれた色彩は丹念に抽出され、カラーパレットに加えられます。変化した金属箔の表面は、色彩の抽出後に封じられますが、新たに調合された色彩は、既存の絵画上で分断された数字に塗り重ねられ、剥き出しのまま変化していくことになります。工業的なフォルムを装った数字は、拡大され、分断され、彩色され、資本主義社会の時間神話を批判しているようです。しかし同時に、目視できないほどの微細な時間の推移や、天文学的で刹那的な時間、あるいは誕生から死までの時間を語れるほど洗練されていない人間の言語にとって、数字への収斂は不可避であることを物語っているようです。エントロピーとはギリシア語で特殊な状況下における不可逆的な状態の変化を意味しますが、本シリーズでは、変化の過程を物理的に示す数字が、キャンバス上の時間の地層となり、時間の不可逆性そのものを問うています。
一方で、《英国の歌鳥》シリーズでは、肉体の記憶が、数字に還元されることなく、イメージの触感として浮上しています。濃厚な肉質の肖像画で知られる英国の画家ルシアン・フロイド(1922-2011)のアシスタントを長年務めたアーティストのデヴィッド・ドーソン(1960- )の誘いを受け、アーモンドは、ケンジントンにあるフロイドのスタジオを訪問しました。家主の肉体は不在でありながら、生前のまま手付かずの状態で保存されたスタジオで、アーモンドは、絶妙なバランスを保って積まれている絵の具で汚れた布の山に目を留めます。一見、雑然と積まれている布ですが、それは、光の具合によって色彩を変えながら、主なきスタジオでひっそりと呼吸を続けていました。
アーモンドは、自身のスマートフォンで山積みの布を撮影し、そのデジタルイメージを用いて、二つの作品シリーズを制作しました。一つは、引き伸ばした写真をカンヴァスに印刷し、鮮やかな絵具の染みを加え、フロイドのカラーパレットにちなんで英国の歌鳥の名前を付けた絵画シリーズです。まるで歌鳥たちが魅せる艶やかな羽のように、アーモンドが描き加えた絵具の染みは、特異な触感を放ち、止まっていた時間が動き始めたかのようです。もう一つは、写真をリトグラフ印刷したシリーズです。タイトルには、ルシアンの祖父である精神分析医ジークムント・フロイト(1856-1939)の心理性的発達段階が引用されています。人間の根本的なエネルギーは、乳児期からすでに個々の器官が発する性欲にあるという理論ですが、布の山をモチーフにしたアーモンドの両作品からは、肉体の不在がもたらす逆説的な存在感を見出すことができます。
2つの新作シリーズが扱う時間と比べて、即興的で直感的な身振りを見出すことができるのは《Haboku》シリーズです。制作の過程でデジタル写真が用いられ、画面全体に色彩が広がる《エントロピー》と《英国の歌鳥》とは異なり、本シリーズでは、デジタルに還元されないアーモンド自身の身体性と、余白、そして平面性が強調されています。タイトルから、同一色を塗り重ね濃淡を出すことで遠近感を演出する山水画の技法の影響を見ることができ、重力方向に下降する絵具は、流れる滝や木々を思わせます。黙想的な風景画のように見える一方で、かつて禅僧道元が説いたように、静止している松などの植物も人と同じように時間と空間を構成し、時間と空間、時間と存在は、常にひとつで、人生は、常に「今、ここだけ」にあることが示唆されます。
本展のタイトルでもあるタイムラインは、通常、効率よく作業するために整理された時系列を意味します。アーモンドは、自然の周期的な時間に耳を傾けながらも、デジタル社会で一方方向に直進するオンライン上のシステムは、時間が不可逆的であることにより、回想が可能となり、私たちが死すべき存在であることを知らせる装置であるとも指摘しています。複数の時間が交差する本展は、分散的で抽象的な時間の思索空間となり、生死をめぐる時間すら管理される現在の政治、社会、経済が置き去りにしてきた記憶や感情を蘇らせるのです。